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2008年5月 北海道札幌市:定山渓温泉、北見市:温根湯温泉 [旅]

2008年5月

5月の連休に、家猫さんと北海道札幌の定山渓温泉と、北見市の温根湯温泉に行ってきました。

定山渓温泉は、開湯130年、北海道では古手の温泉で、登別、湯の川(函館)と並んで、北海道の三大名湯とされています。

お宿は、「定山渓ビューホテル」。
夜遅く、最上階の展望風呂に入りました。
泉質は、ナトリウム-塩化物泉(低張性)、泉温は64.3度。
無色無臭のさらっとしたお湯ですけども、嘗めるとかなり塩辛く、海からかなり遠い山の中なのに、不思議な気がします。
保温性は高いようで、それほど長く入っていなかったのに、身体はずいぶん温りました。


北見市の温根湯温泉は、明治32年創業の同温泉の草分け「大江本家」に泊まりました。
お湯は、アルカリ性単純泉で、泉温49.2度で、加温・加水なしの純度100%源泉かけ流しです。
無色透明で、わずかに硫化水素臭がします。
「美白の湯」として知られるだけに、アルカリ泉特有の滑りがとても強く、滑らないように注意が必要です。

入ったのが、夜中だったので人少な。
微妙に泉質・温度が異なる浴槽に、順番にゆったり浸かってきました。
気持ちい~ぃ。


2008年2月21日 埼玉県秩父市:新木鉱泉 [旅]

2008年2月21日

仲良しの友人と私の故郷、埼玉県秩父市の「新木鉱泉」に行って来ました。
http://www.onsen-yado.net/

文政10年(1827)創業、「御代の湯」として秩父七湯の一つに数えられる古い鉱泉宿。
かっては秩父観音霊場34箇所をめぐる巡礼客で賑わいましたが、私が子供の頃は、地味なお宿で、観光客が泊まるような宿ではありませんでした。
それが当代になってから、創業時の重厚な建物を生かす形でリニューアルし、秩父でも有数のレベルのお宿に。
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お部屋は、私の身体のことがあるので、例によって露天風呂付きのお部屋。
部屋から1段高い所に作られたベランダに丸い檜の桶が設えられ、湯気を上げています。
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丸い檜の湯船は、壁にもたれて脚を真っ直ぐに伸ばせるくらいの大きさで、2人ならゆっくり入れます。

お湯は無色無臭無味、少しツルっとした感じがあって、肌に心地よいです。
ph値:9.4、泉温:14.8度、泉質は単純硫黄冷鉱泉(低張性・アルカリ性・冷鉱泉)。
後で、温泉成分表を見たら、陽イオンはナトリウムイオン95%、陰イオンは炭酸水素イオン68%、硫酸イオン17%が卓越しています。
硫酸イオン17%というところがポイントでしょう。
加熱して、ややぬるめの湯温(40度くらい)になっていますが、身体はよく暖まりました。

お湯が溢れた分は補充されて、いつでも一定の湯量を維持する仕組み(おそらくコンピューター管理)で、構造的には先週泊った伊豆山温泉のお宿の露天風呂と同じシステムのように思います。

2008年2月9日 熱海:伊豆山温泉 [旅]

2008年2月9日 

年初から多忙で、やっと少し時間ができたので、家猫さんと熱海の奥座敷伊豆山(いずさん)温泉に行ってきました。

お宿は、創業200年の老舗「うみのホテル 中田屋」。
奈良時代の養老年間の発見と伝える「走り湯」を源泉とする温泉旅館です。

(注)地元の説明版には「走り湯」を「日本三古泉の一つ」と紹介していましたけども、一般には「日本三古泉」とは、有馬温泉(兵庫県)・道後温泉(愛媛県)・白浜温泉(和歌山県)を指すようです。

お宿に入る前に、ホテルの裏の「走り湯」を見学しました。
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珍しい横穴式自噴泉で、奥行き5~6mほどの洞窟(トンネル)状の内部は、湯気濛々で、たちまち視界がホワイトアウト
さらに奥の方で湯が湧き出るボコボコという音が聞こえました。

すぐそばの「走湯(そうとう)神社」にお参りして、16時過ぎ、ホテルへ。

お部屋は、私の身体のことがあるので、ちょっと奮発して最上階の露天風呂付き客室。
お部屋には海を見下ろす広いベランダ(海側)が付属していて、そこに2人がゆっくり入れる大きさの檜の湯船が設えられています。

さっそく入浴
あいにく、宿に着く直前から雨が降り出したので、眺望はききません。
雨がひどくなったので、布屋根を出して(手動式)入りました。

泉質は、カルシウム・ナトリウム-塩化物泉(ph-7.5)泉温 67.8℃。
無色透明、臭いもほとんどありませんが、嘗めると塩辛く、目に入るとかなり浸みます。
成分はかなり濃いようです(高張性)。

すぐ裏の源泉から引いているので、いわゆる「源泉掛け流し」という形で湯量は実に豊富。
出たり入ったりしながら、30分ほど暖まると、肩や腰の重い感じが楽になってきました。

出てからも、身体がほかほかして気持ちよくて、夕食までの間、40分ほど寝入ってしまいました。

すぐ南隣に有名な熱海温泉があるので陰に隠れがちですけど、伊豆山温泉、意外に穴場だと思います。


2007年10月7日 知内(しりうち)温泉 [旅]

2007年10月6~8日、北海道函館周辺を旅してきました。

2泊目は、「日本の秘湯を守る会」の知内(しりうち)温泉ユートピア和楽園」。

金山の発掘の副産物として西暦1205年に発見されたという伝承をもつ北海道最古?の温泉。

下の湯(内湯)は、ほぼ透明な含食塩重曹泉。
湯量豊富な上に加水していないので、深めの浴槽の方は相当に熱く、熱湯好きの私でも長く入っていられないくらい(47度くらい?)。
出た後、脚が少しひりひりしたので軽く火傷したのかも。
寝湯ができる浅い浴槽の方は、少しぬるめなので、ゆっくり浸かることができました。

お宿から渡り廊下を下り、細い道路を隔てたところにある別庭に設けられた混浴露天風呂は、脱衣室もない野趣あふれる作り。
脱衣場所(棚がある)と道路の間には、目隠し塀も樹木も無いので、道路を人や車が通ったら、ほとんど丸見え。
本物の女性には、ちょっと勇気が必要かと思います。

こちらのお湯は、さらっとした鉄鉱泉で、お湯があふれる湯船の周囲は、析出した温泉成分(鉄分)で赤錆色に染まっていました。
内湯に比べると少し湯温も低く(それでも45度くらい)、ゆっくり浸かっていると、身体の疲れが癒されます。

露天風呂には、夕方、夜中(撮影)、朝と3度も入ってしまいました。

早朝、人のいない時間帯をねらって(なにしろやっかいな身体なので)、岩風呂の上の湯(内湯)へ。
お湯は少し濁ったとろりとした感じスベスベ感がある含重曹弱食塩泉。
源泉の温度は65度だそうで、加水してないのでかなり熱く、短時間浸かるのがやっと。
浴室の床はあふれたお湯の成分が蓄積して千枚田のよう。

この温泉、泉質は申し分ないのですけど、熱すぎてゆっくり入れないのが難点。
その点、もう一工夫あってもいいのではないでしょうか。

2007年10月6日 函館・湯の川温泉 [旅]

2007年10月6~8日、北海道函館周辺を旅してきました。

1泊目は、湯の川温泉「湯の浜ホテル東海亭」。

お部屋は、津軽海峡が眼下に見渡せる、すばらしいオーシャンビュー。
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夜、お布団の上で、遊んだ後は、お部屋付属の温泉に。
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自家泉脈というだけあって湯量は豊富。
いくらでもお湯を使える贅沢感はうれしいです。

湯温はかなり熱めで、しばらく冷ましてから入りました。
泉質は食塩泉、さらっとした気持ちの良いお湯でした。

2012年05月23日  57歳の誕生日に思うこと [日常(思い出話)]

2012年05月23日  57歳の誕生日に思うこと
5月23日(水)
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木々の青葉が日に日に濃くなり、つつじの花が美しく咲くころ、私は生まれた。

放射線の専門医だった父は戦後混乱期の結核の巡回診療で大量被曝、37歳の母親は当時としては超高齢初産。

生まれる可能性がとても少ない子だった。
実際、母親の最初の妊娠は胞状奇胎で流産だった。

母親はつわりがとてもきつく、何度も母子ともに危うい状態になった。
なんとか男の子が生まれたものの、お乳が飲めず、また命が危なくなった。

父親が腕の良い医者じゃなかった、たぶん母子ともにはかなくなっていたと思う。

子供の頃は身体が弱く、幼稚園(5歳)の病欠は60日。

小学生1年(6歳)のときには麻疹から肺炎を併発し42度の高熱で死にそうになった。
この時も、父が医者じゃなかったら助からなかっただろう。

加えて、歩き始めた1歳の時に縁側からガラス戸を突き破って庭に転がり落ちた。
割れて散乱したガラスの中にうつ伏せに倒れている私を見て、母親は血の気が引いたと言う。

3歳の時には自宅の前の道でオートバイに撥ねられて門の中に飛んできて、叔父の足にぶつからなかったら、庭石に激突するところだった。

9歳の時には自転車で小型トラックの側面に衝突して、自転車がグシャグシャになった。

13歳の時に、友人の家の車庫の屋根から3m下のコンクリートに転落して、頭を打って意識不明で自宅(病院)に運び込まれた(なぜ、救急車が呼ばれなかったのか?)。
後で聞くと、父は「これは駄目か」と思ったとのこと。

どの事故にしろ、ほんの僅か何かが違っていたら死んでいたと思う。

そんな生まれ育ちで、子供時代の私にとって「死」は遠いものではなかった。

よく57歳まで、とりあえず元気で生きてこられたと思う。

最近は、「生きてこられた」というより、性別の移行も含めて、そう「生かされた」のだと思っている。

なぜ「生かされた」かという、「ちゃんと仕事をしろ!」ということなのだと思う。
ちょっと気取った言い方をすれば「天命を果たせ!」ということ。

あと5年、本気で頑張って仕事をしよう。
その後は、またその時だ。

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たくさんの方から、誕生祝いのメッセージをいただき、ありがとうございました。

誕生日の朝、ブログに貼った写真があまりにもブログ主「遠影」なので、本当に57歳の誕生日に撮った「近影」写真を貼っておきます。
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2012年01月07日 順子、最初の年賀状(平成5年=1993年) [日常(思い出話)]

2012年01月07日 順子、最初の年賀状(平成5年=1993年)
1月7日(土)

順子が最初に作った年賀状。
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平成5年(1993)、今から19年前。
女装クラブ「エリザベス会館」に通って女装修業していた時代。

文字は、今は亡き「プリントごっこ」で印刷。
写真のプリントをカットして糊で貼り付けてある。

写真は、前年(1992)1月に撮影した青地に花車の柄の大振袖

制作枚数はたしか6〜7枚くらい。
主にファンの男性に差し上げた記憶がある。

手元に保存されているのは、宛先不明で戻ってきたもの。

翌年から、写真屋さんに依頼した写真年賀状になる。

2011年10月18日  叔母の墓参り [日常(思い出話)]

2011年10月18日  叔母の墓参り
(続く)

駅前のスーパーマーケットで、生花とお線香、それと雑巾、ライターを購入。

15時25分発の大月行き普通電車に乗る。
都留文科大学前駅から2つ目の都留市駅で下車。

都留市の中心をなす旧谷村(やむら)町は、江戸時代の初期には城下町だった。
谷村藩(郡内藩)は最初は徳川譜代の鳥居氏が3万5000石で入り、次いで同じく譜代の秋元氏が1万5000石を領した。

谷村の町の北側には、城下町によくあるように防衛線を兼ねていくつかの寺が並んで置かれた。
駅から10分ほど緩い登り坂を歩いて、その内に一つ円通院を訪ねる。
立派な山門がある、格式の高そうなお寺だった。
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実は、私の母の妹(叔母)が、谷村の商家に嫁いでいて、一つ年上の従姉がいた。

私は子供の頃、祖母に手を引かれて何度も谷村の叔母の家を訪ねたことがある。
その叔母の家に、沖縄から来ていた都留文科大学の学生さんが下宿していて、彼女に「琉球郵便」の切手をもらったのが、都留文科大学と私との最初の縁だった。
まだ沖縄が本土復帰する前の、もう50年も前の話だ。

最後に叔母の家に泊まったのは、大学1年生の夏休みのことだった。
民俗学のレポートのために、富士吉田に火祭りを見に行った。

叔母に最後に会ったのは母が亡くなった時だったと思う。
それからほどなく叔母も体調を崩し、長患いの末に亡くなった。

しかし、いろいろな事情があって、葬儀には行けなかった。

私の母方の祖母の実家は、美人が多く出る、しかも老化が遅い家系だったが、叔母はその血筋を最もよく受けて中年になっても若々しく美しい人だった。
気立ても、長女だった私の母とは対照的な、末娘らしく明るく華やかだった。

昨年、都留文科大学の非常勤講師を依頼された時に、叔母の墓参りのことが頭に浮かんだ。
しかし、昨年度はいろいろあわただしくて、その余裕がなかった。

今年の正月、年賀状のやり取りだけは続けている従姉に叔母のお墓のあるお寺さんの名前だけは聞いておいた。

ということで、今日、やっとお寺を訪れることができたのだが・・・。

山門をくぐり、庫裡に声をかけた。
反応なし。
お墓の詳しい場所をきくつもりだったが、仕方がないので、墓地へ。

墓地はそれほど広くなく、傾斜地に作られていたので、ほぼ全体が見渡せる。
叔母の名字が刻まれた墓は4つあった。

一つ一つ巡って、墓誌に刻まれている俗名を確認していく。
ところが見つからない。
困った。

その時、庫裡の内(墓地は庫裡の裏手にある)に人の気配を感じた。
そこで、もう一度、庫裡に戻り、今度は遠慮なく大きな声を掛けた。

反応なし。
やはり誰もいないのかなと思った時、腰の曲がったおばあさんが出てきた。

叔母の氏名と住所、それに家号を告げて、お墓の場所を尋ねた。
思い出してもらえない・・・。
これは駄目かな?と思いながら、思いついて施主(叔父)の名を告げたら、「もしかして・・・あのお墓かな」と反応が返ってきた。

「場所だけ教えてくだされば結構です」と言ったのに、案内して下さるという。

しかし、それからが大変。
おばあさま、腰が曲がっているので、手押し車を支えにして歩くのだが、墓地は傾斜地なので坂道がなかなか上がらない。
私も手提げ袋とお花で両手が塞がっているので、うまく介助できない。

やっと「かもしれない」というお墓に着いた。
墓誌に叔母の名がないことは確認済だが、その時、おばあさまが「施主さんのお名前が裏にありますよ」と教えてくれた。

ああ、そうだった、なぜそれに気づかなかったのだろう。
施主の名は、間違いなく叔父の名だった。

そして、古い卒塔婆に叔母の名が入った「〇〇尼」と書かれてあり、やっと確認できた。

案内してくれたおばあさまに御礼を言って、お墓の掃除にかかる。

お墓はかなり汚れていた。
叔父も80歳を過ぎ、体が不自由だ。
従姉も離れた場所に住んでいる。
そうしばしば墓参りも叶わないのだろう。

雑巾1枚では、満足がいく掃除をするのは無理だったが、できるだけのことはして、お花とお線香を供える。

子供の頃、可愛がってくれた御礼と、長い間の無沙汰を詫び、縁あって都留文科大学で講師をしていることを報告した。

お墓探しと掃除で思いがけず時間を費やしてしまい、駅に戻った時には乗る予定の電車が行った後だった。

でも、これで長年の気持ちの引っかかりが取れた。

また時間があるときに来よう。
今度は小さなデッキブラシ持参で。
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2011年10月18日 枕元の放射線源 [日常(思い出話)]

2011年10月18日 枕元の放射線源
10月18日(火)

10月16日放送のフジテレビ「Mr.サンデー」で、婦人用のアンティク−ク時計に放射線測定機を当てたところ、8μSv/hを記録した。

いうまでもなく、時計の針や文字に放射性物質(ラジウム)を含む夜光塗料が使われているからである。

ところで、私は、子供の頃から今に至るまで、寝起きがたいへん悪い(やや低血圧)。
目覚まし時計は、学校に行くにも、仕事をするにも必需品だった。

子供の頃は、円い文字盤に足がついた大きな目覚まし時計を枕元に置いていた。
暗い部屋でも夜光塗料を太く塗った針が光って、一目で時刻がわかった。

あんな小さな婦人用腕時計で8μSv/h、私のあの大きな目覚まし時計は、いったいどのくらいの放射線を出していたのだろ?
控えめに見て倍、15μSv/hくらいだろうか?

つまり、毎晩、枕元、つまり頭のすぐ近くに、放射線源を置いていたのだ。
遠足の前の日などには、ご丁寧に2つも・・・。

でも、別に禿げてはいない。
56歳になるまで癌にもなっていない。

これは、私だけの特異な経験ではなく、同じ世代(56歳±5)の人たちは、だいたい同じ体験をしているはずだ。

しかも、一歩外に出れば、米ソ英仏中の核大国が膨大な回数繰り返した大気中核実験がまき散らした放射性セシウムや放射性ストロンチウムを含むチリが大量に舞っていた。
その中を遊び回っていた。

(参照)2011年03月21日 「放射性物質にさらされた世代」
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/201103210001/

だから、数μSv/hとか、300Bq/平方mとか、今さら何を・・・と、どうしても思ってしまう。

まして、私の場合、子供の頃、自宅のレントゲン室で遊んでいたという特異な体験があるわけで・・・。

とは言え、妊婦さん、子供、これから子供を生む予定の女性は、できるだけ被曝しないようにすべきなのは言うまでもない。


2009年03月03日 雛祭りの思い出 [日常(思い出話)]

2009年03月03日 雛祭りの思い出
3月3日(火) 曇り 夜、雪 東京 6.0度 湿度 46%(15時)

8時、起床(仕事部屋)。

昨夜、ひたすら眠ったのに、花粉症&風邪はあまり改善せず、体調、甚だよろしからず。
雑排水管清掃の予定がなかったら、一日中、寝ていたい気分。

お風呂に入って、身体を無理やり起こす。

化粧と身支度。
豹柄のチュニック(長袖)、黒のブーツカット・パンツ、黒網の膝下ストッキング、黒のショートブーツ、黒のトートバッグ、ボア襟の黒カシミアのポンチョ。

10時、雑排水管清掃の作業員、来訪。

11時過ぎ、仕事部屋を出る。

学芸大学駅前(西口)の「コロラド」で、朝昼ご飯。
シーフード・ドリアとコーヒー。

13時半、帰宅。

服を着替え、化粧を落として、ベッドへ。

4時間ほど眠る。

19時、パートナーが帰宅したので起きる。

民主党の小沢一郎代表の公設第一秘書、政治資金規正法違反容疑で逮捕のニュース
麻生首相が、どれだけ支持率が下がっても、妙に自信有りげにニヤニヤしていたのは、この奥の手があったからなのだな、と思う。

夕食は、パートナーが作った、鶏団子のクリーム・シチュー。
あまり、食欲なし。

お風呂に入って、髪を洗う。

ところで、今日は雛祭り。
ウチは、男の子なので、テレビの上に、猫雛が出ているだけで、特になにもしない。
私が元気だと、蛤のお吸い物を作るのだけど、今年は、その気にならなかった。

正直言って、雛祭りには、あまり良い思い出がない。
雛祭りの日、自分がそこに居たいと思っても、「男の子だから」と追い出された、哀しいような悔しいような記憶があるからだと思う。

つまり、自分にとって、雛祭りは、性別違和感を刺激される日なのだ。

今でも、女性限定の集団の中に居るのは苦手で、そういう場にはできるだけ近寄らないようにしている。
いつ、誰に「あなたは違うから出て行きなさい」と言われるかもしれない恐怖感が拭えない。
今後、どんなに女性として社会適応していっても、たぶん、その気持ちは、一生、消えないと思う。

その点、素直に、自分のこととして雛祭りが祝える(自分が女性であると揺るぎなく確信できる)MtFの性同一性障害者が、ある意味うらやましい。

夜になって雪。
うっすら積もる。

早めにベッドへ。

就寝、1時。

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